みなさんこんばんは、たかパパです。
今回は横浜DeNAベイスターズの
レジェンドトップ5を紹介していきたいと
思います。
横浜といえば、リーグ優勝2回(1960年、1998年)、
日本一2回(1960年、1998年)と歴史の浅い楽天を
除けば1番優勝回数が少ない球団であります。
その歴史が象徴しているかのように200勝、
2000本安打を達成している選手は1人ずつ。
また、優勝したのが1960年と1998年の
2回ということもあり、レジェンドと
いわれて思い浮かぶのは1998年の優勝メンバーと
いう方も多いのではないでしょうか。
横浜といわれてもピンとこない方も
今回を機にレジェンドを思い出して
いただければ嬉しいです。
ということで早速レジェンドトップ5を
紹介していきましょう!
目次
第5位:元祖カミソリシュート!昭和の大エース秋山登
1956年に大洋に入団。
1967年に引退するまでの12年間在籍。
通算成績は639試合193勝171敗で
防御率2.60という成績でした。
キャリアハイは、チームを初優勝に導いた
1960年でしょうか。
この年は59試合に登板し、21勝10敗、
防御率1.75という成績でした。
この年は最高勝率と最優秀防御率、MVPに
輝く大車輪の活躍でした。
主な獲得タイトルは以下の通りです。
最高勝率:1回(1960年)
最優秀防御率:1回(1960年)
最多奪三振:1回(1957年)
MVP:1回(1960年)
ベストナイン:1回(1960年)
チームの初優勝に大きく貢献した
秋山氏でしたが、プロ野球生活12年間の
うちAクラス入りは3回だけいうことも
あり、積み重ねた勝ち星は193勝に
とどまりました。弱
小チームのエースとして、先発・リリーフと
フル回転させられたこともあり、晩年は
ケガに泣かされたことも200勝に届かなかった
原因となりました。
もっとも、弱小球団で193勝を積み重ねたのは
まさに偉業といえ、200勝以上の価値がある
ともいわれています。
投球面では、当時はまだ珍しかった下手投げの投手。
下手投げから繰り出されるシュートは
「カミソリシュート」と呼ばれ、打者に
恐れられていました。
「カミソリシュート」といえば、平松氏の
イメージが強いですが、平松氏は秋山氏の後輩。
もともとは秋山氏につけられたもので、
平松氏はその異名を受け継ぎ、現在の
イメージとなっています。
現在まで続く大洋・横浜の礎を築いた
文字通りの大投手。
ファンならずとも記憶に留めておきたい
名選手といえるでしょう。
第4位:勝利に恵まれなかった平成の大エース!三浦大輔
第4位にはハマの番長を。
1991年にドラフト6位で大洋に入団。
引退する2016年までの25年間横浜一筋
で過ごしました。
通算成績は523試合登板172勝184敗で
防御率3.60という成績でした。
キャリアハイは初の最優秀防御率を獲得
した2005年でしょうか。
この年は、30試合に登板し12勝9敗。
防御率2.52、177奪三振という成績で、
最優秀防御率と最多奪三振のタイトルを
獲得。また、10完投で自身初となる
200イニング以上登板を達成しています。
主な獲得タイトルは以下の通りです。
最高勝率:1回(1997年)
最優秀防御率:1回(2005年)
最多奪三振:1回(2005年)
三浦氏の持ち味はコントロール。
通算与四死球率は2.42と少なく、四死球で
崩れるということはほぼありませんでした。
ただ打線の援護に恵まれることが少なく、
また2000年代はチームの低迷期だった
こともあり勝ち星を思うように積み重ね
られませんでした。
Aクラスを争えるようなチーム状態であれば
200勝を達成できたかもしれずファンの
中では惜しむ声があります。
しかし、25年でAクラスはわずか7回、
優勝は1回というチーム成績の中で積み重ねた
173勝は200勝とは一味違う価値があると
いえるのではないでしょうか。
開幕投手を7回務め1回も勝てなかったことや、
ソフトバンクの柳田選手にバックスクリーンを
破壊される一撃を浴びたこと、開幕戦での
逆転サヨナラ満塁ホームランを浴びたこと、
など不運な男というイメージがありますが、
不運さを感じさせないのはその優しさ溢れる
人柄からくるものと言えるのではないでしょうか。
今なお横浜だけではなくプロ野球ファンにも
愛される「ハマの番長」。
記録には残らないかもしれませんが、人々の
記憶には永遠に残るハマのエースといえるでしょう。
第3位:100勝100S!ヒゲの斉藤こと斉藤明雄
1976年にドラフト1位で大洋に入団。
1993年に引退するまでの17年間を
大洋・横浜一筋で過ごしました。
通算成績は601試合登板、128勝125敗
133S、防御率3.52という成績でした。
キャリアハイは、最優秀防御率を獲得した
1982年でしょうか。
この年チームは5位にとどまりましたが、
斉藤氏自身は56試合登板で5勝6敗30S、
防御率2.07という成績を残しました。
抑えながら最優秀防御率を獲得したのは、
この当時は1試合2~3回を投げることが
多かったから。
抑えながら100イニング以上を投げています。
主な獲得タイトルは以下の通りです。
最優秀防御率:1回(1982年)
最優秀救援投手:2回(1983年、1986年)
最多奪三振:1回(1978年)
1981年までは主に先発で、1987年までは
抑えとして活躍。
1988年に再び先発に戻り、当時史上初と
なる100勝100Sを達成しました。
晩年は持病のひざ痛に悩まされ思うような
結果を残すことができませんでしたが、
低迷期を支えた名ストッパーは「ひげの斉藤」の
愛称でファンに親しまれていました。
引退セレモニーでスタンドから万雷の拍手と
涙まじりの声援が送られたのを覚えている
方も多いのではないでしょうか。
のちにハマのエースとなる三浦大輔氏は
このセレモニーを見て
「いつかこんな引退試合をしてもらえる選手になろう」
と思ったと語っています。
後輩にも大きな影響を与えた偉大な投手は
誰しもが認めるレジェンドといえるのでは
ないでしょうか。
第2位:横浜唯一の200勝投手!平松政次
1967年に入団し、1984年に引退するまで
の18年間大洋に在籍。
通算成績は635試合登板、201勝196敗16S、
防御率3.31という成績でした。
キャリアハイは沢村賞を獲得した1970年
でしょうか。
この年は51試合に登板し25勝19敗、
防御率1.95という成績を残しました。
主な獲得タイトルは以下の通りです。
最多勝:2回(1970年、1971年)
最優秀防御率:1回(1979年)
沢村賞:1回(1970年)
最優秀投手:2回(1970年、1971年)
ベストナイン:2回(1970年、1971年)
18年でAクラスはわずか1回。
優勝は1度も経験することはありませんでした。
優勝を経験することなく200勝を達成
したのは平松氏を含め2人しかいない
珍しい記録。
平松氏は岡山東商業高校時代、春の選抜
高校野球の優勝投手となっていますが、
甲子園優勝投手が200勝を達成したのは
平松氏が唯一となっています。
持ち味は何といってもスライダー。
もっとも、プロ入り後2年間はストレートと
カーブで勝負しており、シュートは
投げていませんでした。プロで伸び悩んで
いた3年目の春季キャンプでシュートを
投げたところ鋭く曲がり、バッターが腰を
抜かしたことから本格的に投げるように。
その結果、2年連続で最多勝に輝くまでに
なりました。巨人の長嶋氏は平松氏の
シュートを大の苦手にしており、通算の
対戦成績は1割台に抑え込まれています。
平松氏は巨人戦に圧倒的に強く、
通算51勝を挙げています。
弱小球団のエースが常勝軍団にこれほど
まで勝ち星を積み重ねられたのは偉業と
いえるのではないでしょうか。
晩年はケガに泣かされ、200勝達成が
危ぶまれたこともありましたが、持ち前の
負けん気の強さで見事に復活。
大洋・横浜唯一の200勝投手となりました。
シュートといえば平松といわれるほど、
後世に多大な影響を与えた大洋のエース。
優勝には導きませんでしたが、低迷期に
これほど勝ち星を積み重ねられたのは
圧倒的な能力があったから。
積み重ねた201勝は重みのある偉大な記録
といえるでしょう。
第1位:ハマの安打製造機!石井琢朗
第1位はやはりこの人。
横浜で唯一の2000本安打選手である
石井琢朗選手です。
1989年~2008年まで20年間在籍し、
2009年~2012年まで広島に在籍して
引退しています。
広島での成績を含めた通算成績は、
2413試合出場、打率.282、2432安打、
102本塁打、670打点となっています。
(横浜だけでは、2158試合出場で
2307安打626打点)
また、投手として28試合に登板し1勝4敗、
防御率5.69という成績を残しています。
キャリアハイは、やはり優勝した1998年
でしょうか。
この年は打率.314、174安打39盗塁で最多
安打と盗塁王に輝き、優勝に大きく貢献。
主な獲得タイトルは以下の通りです。
盗塁王:4回(1993年、1998年、1999年、2000年)
最多安打:2回(1998年、2001年)
ベストナイン:5回(1997年~2001年)
通算2432安打はプロ野球史上11位、
358盗塁は同16位となる大記録。
ショートでプロ野球史上最多出場記録となる
1765試合を持っています。
横浜の球団記録として、2158試合出場、
9403打席、8145打数、1243得点、2307安打、
44三塁打、355盗塁、271犠打、959四死球、
1171三振があります。
投手として入団し1勝以上を挙げて、
2000本安打以上をマークした選手はあの
「打撃の神様」川上哲治氏以来のプロ野球
2人目の偉業です。
意外にもシーズン三割をマークしたのは4度。
しかし、スタメンに定着した1993年から
退団する2008年までいずれのシーズンも
出塁率3割以上をマークしており、1番として
安定的な成績を残しています。
石井琢朗といえばやはり守備でしょうか。
もともと投手だったこともあり、送球までの
速さがありショート深いところからの
矢のような送球で何度も投手を助けました。
引退後は広島・ヤクルトのコーチを歴任。
広島時代は打撃理論で現在の広島カープの
破壊力抜群の攻撃力を作り上げました。
2018シーズンよりヤクルトの打撃コーチに
就任しています。
引退勧告を受けての退団ということもあり、
横浜復帰にはしこりがあるかもしれませんが、
親会社が代わったこともあり、戻りやすく
はなっているのではないでしょうか。
今なお横浜ファンに愛されている石井琢朗。
ファンはその帰還を待ちわびています。
当サイトプロ野球・考察その他ランキングはこちら!
まとめ
いかがでしたでしょうか。
比較的最近横浜ファンになられた方には
なじみの薄い選手が多いランキングと
なりました。
レジェンドといえば大リーグでも活躍した
佐々木主浩氏や歴代屈指の名捕手谷繁氏
などランクインしていなかったことが
意外と思われるかもしれません。
佐々木氏はチームの90年代前半の低迷期で
セーブ数が伸びなかったこと、谷繁氏は
在籍年数が短かったことがトップ5の
レジェンドと比べると見劣りしたところ
であります。
通算成績ではトップ5のレジェンドより
上でしたが、チーム在籍中の成績と
なるとどうしても下回ってしまう
ところであります。
現在過去問わず言えることですが、
活躍選手はどうしても強い球団に移籍して
しまい在籍通算成績が伸び悩むことが
多いです。
内川選手や村田選手など現役選手も移籍が
なければトップ5に入っていたかもしれません。
もっとも、横浜生え抜きの選手が球界に名を
残したことはファンとしては誇らしいこと
だと思います。
短い在籍期間ですが、横浜を支えたレジェンド
たちも永遠に記憶にとどめておきたいですね。
そして今まさに黄金期を迎えようとしている
横浜DeNAベイスターズ。
昭和とは時代背景が違いますので通算での
大記録というのは生まれにくくなっていますが、
新たなレジェンドの誕生にも期待したい
ところですね。
最後までお読み頂き有難うございました!